ゆと日記

20代女。適当に喋ります。

隠れた名作、芥川龍之介の『河童』

芥川龍之介の作品と言えば、みなさんは何を思いつくだろう。

高校の現文で習う『羅生門』だろうか。

それともかの有名な『蜘蛛の糸』だろうか。

これ以外の彼の作品を、そもそもみなさんはご存知だろうか。

 

これを読んでいる方の中で、芥川龍之介の『河童』を読んだことことがある人はいるだろうか?

『河童』は、彼が遺した短編小説の中では少し長めに作られている。

 

『河童』は、芥川が自殺する年、つまり晩年に発表された作品で、大まかなあらすじとしては主人公が河童の世界に迷い込み、そこでしばらく生活するといったお話だ。

語り口調の追想で始まる。

※今更にはなるが、読み進めていくとネタバレになるので注意していただきたい。

 

 

 

主人公は河童の社会で暮らしていくのだが、人間社会と差異がなく、むしろ河童たちの方が高度な文明を築いていることに驚く。

河童たちは言語を操り、生活のために仕事をし、そして男女で恋愛をして家庭を築く……というように、基本的には人間社会と在り方は変わらない。

政治もあるし、インフラも、宗教もある。

また河童たちは、人間のことをよく知っており、たまに自分たちの世界へ紛れ込んでくる人間を攻撃したりせず、「特別保護住民」としてそのまま社会に身を置くことを許している。

 

しかし、河童の社会と人間の社会(芥川が生きていた当時の日本)は、あまり変わりがないように見えて、真逆な常識も持っていることも多くあった。

まずは服。人は裸を当たり前のように服で隠すが、河童たちにはその習慣がなく、主人公が隠しているのをむしろ滑稽だと笑う。

次に家族計画。作中では産児制限と書かれ、子供の数を制限することが親の身勝手だと笑われる。(芥川の時代では避妊具の普及、人口問題の解決のためにそういう運動も多かった)

いちいち例を挙げていけばキリがないほど、人間にはない常識と習慣があり、やはり河童と人間は違う生き物だと実感させられる。

 

この作品のすごいところは、河童の社会の在り方がとても緻密に作られているが故に、それを人間社会と対比させることで人間社会の滑稽さを見事あぶりだすことに成功しているところだ。

それと同時に、河童の社会の滑稽さと不気味さも浮き彫りになっているのがこの作品の肝である。

 

河童の社会はよく機能しているが、人間からすれば恐ろしい法律や常識も持ち合わせている。

まずは恋愛。

メスの河童はオスの河童を追いかけて関係を迫る。家族ぐるみでオスを追いかけてることもあるから、逃げる側のオスはたまったものではない。

最終的には逃げることに疲労し、無理矢理関係を結ばれるーーというオスにとっては不幸なのか幸せなのか分からない、天国と地獄のような状況がある。(モテる・モテないはあるので追いかけられないオスも中にはいる)

 

そして、もうひとつはーー。

「それはみんな食つてしまふのですよ。」
食後の葉巻を啣へたゲエルは如何にも無造作にかう言ひました。しかし「食つてしまふ」と云ふのは何のことだかわかりません。すると鼻眼金をかけたチヤツクは僕の不審を察したと見え、横あひから説明を加へてくれました。
「その職工をみんな殺してしまつて、肉を食料に使ふのです。ここにある新聞を御覧なさい。今月は丁度六万四千七百六十九匹の職工が解雇されましたから、それだけ肉の値段も下つた訣ですよ。」
「職工は黙つて殺されるのですか?」
「それは騒いでも仕かたはありません。職工屠殺法があるのですから。」

芥川龍之介『河童』より

 

河童の世界では、その当時の日本よりも高度な近代化が進んでいた。機械の導入により、河童の社会で大量の解雇が起こる。主人公は、大量解雇があったのにそれに関するニュースがないことに違和感を感じて、解雇された河童について聞くと、衝撃的な回答を得てしまう。

工場の労働者はなんと、解雇されると同時に殺害されてしまうという。

そして、その肉が同族の食料に使われるという前代未聞のおぞましい末路を平然と河童の友人は語る。これが河童の法律で決まっていると言うのだから、河童の社会もなかなかに狂っている。

ただ忘れてはいけないのが、この後に人間社会を揶揄する台詞も書かれているところだ。

「けれどもその肉を食ふと云ふのは、…………」
「常談を言つてはいけません。あのマツグに聞かせたら、さぞ大笑ひに笑ふでせう。あなたの国でも第四階級の娘たちは売笑婦になつてゐるではありませんか? 職工の肉を食ふことなどに憤慨したりするのは感傷主義ですよ。」

ここでの第四階級とは労働者階級のことで、言ってしまえば庶民のことである。

この頃の日本も階級社会だったので、貧富の差は激しいのはもちろんのこと、女性の中には花を売りに行く人も多かったようだ。

河童たちは、人間社会で当たり前に行われている光景もなかなかに狂っているのだから、我々の習慣を嗤う資格はないと言う。

 

「河童」という、別世界の生き物を介在させることで、私たちは自分たちの住む当たり前の社会を、違った目線で見つめることができる。

 

まさに、芥川の観察眼と分析力が鋭すぎるが故に生まれた作品だ。

 

しかし、主人公の河童ライフにも終わりがやってくる。

河童の生活に嫌気が差した主人公は、自分のいた元の世界に戻りたいと思うようになる。

なぜ嫌気が差したかは文中の中では書かれていないが、恐らく河童たちの常識と思想に疲れたからと見るのが妥当であろう。

 

とある年老いた河童(見た目は子供)に相談した主人公は、そこで抜け道を教えてもらう。

「出ていって後悔のしないように」と警告を受けるものの、主人公は意気揚々と元の世界へ戻っていく。

そしてーーーーー

 

元の世界へ戻ってしばらくした後、主人公は河童の世界に帰りたいと思うようになる。

気づけば精神病院に入れられ、医者たちに語りかけている現実世界に、物語は戻っていく。

精神患者の主人公は、かつての知り合いの河童たちが自分が今いる病室へ見舞いに来てくれたことを語る。バッグにチャックにマッグ。

クラバックが黒百合の花を土産に持ってきてくれたと話すが、指さされたその机には花束も何も乗っていない。トックの詩集も読み聞かせましょうと言って取り出したものは、ただの古い電話帳である。

 

本当に河童の国があったのか、ただの主人公の妄想なのかハッキリ分からないまま、物語は幕を閉じる。

 

 

私は河童の国が本当にあったと信じたい。

主人公が精神患者になってしまったのは、河童の世界に戻れないことを受け止めきれず、現実が嫌になって発狂したからだと考えているが、芥川の亡き今、この答えは永遠に明かされることはないーー……